高校教師の奮闘記録。

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この場ぐらい、本音で語らせてくれ。

過度な説明責任と配慮なんて、クソくらえだ

 

熱中症に注意だの、台風が来ている為不要不急の外出は控える様にだの、さ。

 

そんなのいちいち言う必要ないだろうよ。
「今日は〇〇℃になる」、「最大風速〇mの台風が日本列島を通過する」って、情報だけ伝えてくれればそれで良いんじゃないの?情報からどういう事態が予想されるかを推測して行動するのは、個人の判断で良いじゃない。

 

そんなんだから、自分の頭で考えて行動出来る日本人が減っていくんだよ。烏合の衆ばっかり増えていって、それが「マス」の意見にまで敷衍していってしまうから、「台風の日に自己責任で外で遊んでいた人間」が白い目で見られてしまうんだ。

バカバカしい。
日本人全員、ガキになってる。メディアやエスタブリッシュメントが「保護者」になってる。そんなんいらねーっての。いつまでも保護者ヅラしやがって。

人の生き方・生き様に、手前の価値観フィルターで評価するんじゃない!

馬鹿者が。

ずっと前から彼のこと 好きだった 誰よりも

youtu.be

 

youtu.be

 

西暦2000年になる少し手前、1990年代後半の日本のメディア音楽は、今振り返ると、とてもキラキラしていた様に思う。それぞれの個性を十分に出して、各々のアーティストの個性が大衆に肯定されていた。

今みたいに、高音質だのハイレゾだの、「音のキレイさ」が話題にあがらなかった。スマホYOUTUBEも存在しない時代、音楽を聴くとは一種の身体活動であり、テープをラジカセに入れ、そこから流れる音をノイズ込みで全身で受け止めていた。

1990年代後半。

 

広末涼子の「大スキ!」、藤井隆のナンダカンダ、aikoのボーイフレンド。
どれも素晴らしかった。キャッチ―なメロディーは然ることながら、今思えば、2000年に向けたノストラダムスの大予言が流行る一方で、「希望」も常に人々の心にあったのかなと思う。純粋に、好きなものを好きと言えた時代。「炎上」なんて言葉が無かった時代。昭和の色を残しつつ、段々世の中が変わっていく兆しに対して、社会全体が迎え入れる準備をしていた時代。

この時代、日本のサブカルチャーを見てみれば、ナルトもワンピースも存在していなかった。そんな時代があったんだ、確かに。

1990年代という響きが、ノスタルジーと共に感じられる程、我々は遠い近未来にまで生き抜いてきてしまった。

そう、生き抜いてきてしまった。それだけだ。





一見「楽しい」授業。

 

授業を通して、教員は生徒に担当科目の「面白さ」を伝道しなければならない。それが全てだと言っても良い。


生徒が卒業後も、「あの先生」、「あの授業」、「あの内容」が昨日の事の様に思い出され、知的好奇心を駆り立てられる様な。
そういった授業を展開出来たら、腕のある教師として認定して良いだろうし、そういった授業を受ける事の出来た生徒は、幸いである。

昨今、「見かけ」の面白い授業を展開する教師が増えてきた。
一見、教室がワッと盛り上がっている様に見えるが、知的探求に向けての盛り上がりとは程遠い光景をよく目にする。

じゃんけんが面白いのは当然である。そこに教員としての技能の高さは関係ない。
ミニゲーム」を授業中に取り入れて、生徒が喜ぶのは当然である。ゲーム性のある活動は、単純で、勝敗が明確で、のめり込みやすい。

問題は、ただ、その場で面白いだけなこと。
それが積み重なったところで、生徒の頭の中は「あー、今日も面白かった(=良い暇つぶしが出来た)」で終わってしまうだろう。



教員として目指すゴールを据えるとしたら、それではいかん。そういった授業を展開する教師は、3流である。

真の教師とは。
生徒が如何なるレベルにあろうと、授業を通して、その科目の奥深さと、楽しさ。自ら進んで勉強したいと生徒が思える様な授業を展開するものだ。


「アクティブ・ラーニング」が学校現場で叫ばれる様になって久しい。
この言葉をはき違えて、単なる幼稚園の延長の様な授業を行っていないか。
生徒が楽しそうにワイワイする様子を見て、安堵してしまっていないか。


…無論、如何なる理由であれ、終始生徒が「つまらない」と感じる様な授業しか展開できない教師は、論外である事は付け加えておく。









 

 

 

さらば思い出たちよ!

 

さらば思い出たちよ

一人歩く摩天楼

わたしという名の物語は 最終章

 

悲しくって泣いてるわけじゃあない

生きてるから涙がでるの

凍える季節に鮮やかにさくよ

ああ わたしが負けるわけがない

   (「冬の花」 by- 宮本浩次)

 

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 教師として、担任として受け持った生徒たちを伸ばす事だけを考えて、がむしゃらに突っ走ってきた3年間が終了した。今年は副担任である。
  手塩にかけた我が生徒が学び舎からいなくなった時、教師として私は何を感じるのか。それを知りたくて、今まで妥協せずに仕事を続けてきた。
 
 一つ分かったのは、「仕事」としての教師は、私にとって、その余りにも感情労働過ぎるが故に、非常に辛い仕事だということ。
 卒業生を送り出して、放心状態になる事も許されないままに、次年度の準備でお尻に火を付けられる。牧歌的な、夏目漱石の「坊ちゃん」の様な教師像とは、かけ離れている。教師であり続ける事とは、生活の一部として、日常の連続性の中で教鞭を執っていく事に他ならない。
 恐らく、私はそこまで割り切れない。
 燃え尽きた、というより、一旦は燃え尽きさせて欲しい。私はそこに美学を求める。

 

不死鳥だ。私は不死鳥だ。

ゾンビの様に生きてるのか死んでいるのか分からない生き方なんてまっぴら御免蒙りたい。一旦死ぬ。完全に死ぬ。その後に、鮮やかに蘇る。それこそが、私の生き方、働き方なのだと思う。ゾンビ教師ではなく、不死鳥教師だ。

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教師として、結構な頂(いただき)まで到達した様に思う。

某有名講演家によると、「プロ」と「アマ」の違いとして、こんな事を言っていた。

「プロ」と「アマ」の違いとは、
「聴き手の状態を変えてしまう力」にあるという。

これは、私も完全同意で、私は「不可逆性」と「感染」という言葉によって、今まで理解していた。

更に、氏はプロとアマの違いを5つ列挙し、

・たとえ話を生み出す力
・場の支配力
・今ココを拾う力
・強い言葉を繰り出す力
・感情の爆発力

だと言っていた。

これも、大体私が常々考えていた事と一致し、
そして、私が毎日磨き上げ、意識的に向上させてきた能力だ。


毎日、しっかり気持ちを使って生徒に向き合ること。
「私の存在」によって、生徒の耳目を集め、授業を成り立たせてしまうレベルにまで支配力を上げること。
生徒と自分の「心の距離」を把握し、生徒が知りたい事、疑問に思う事を、場の空気からキャッチすること
「コトバ」の力で、生徒を励まし、生徒をやる気にさせ、生徒の将来に良い影響を与えること
心理的壁を、自分で打破すること。恥ずかしがらず、生徒の前で「恥」をかけること。

 

 

その点において、私は、私自身を、「プロの教師」だと、断言できる。
大半の教師には、到底追いつけない境地まで来たと思う。

もちろん、性別、年齢、性格の壁を越えられるとは思っていない。(例えば、22歳大卒のイケメン先生というだけで、生徒から好かれる、など。)

ただ、技術としてのプロ教師として、胸を張れるレベルまでこれた。

一つの山頂に到達した。
しかし、周りを見渡せば、他にも様々な標高の山が見える。
しばし休憩し、違う山の尾根に取り付ていこうかな。

 

 

 















 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

職場に、高校・大学時代の同級生である"J"が赴任してきた。昨日、Jの姿を校舎内で見るまでは嘘だと思っていたが、高校時代から変わらない笑みを浮かべながら談笑しているJを確認した時、思いもよらない事が実際に起こっている事をやっと理解した。

Jとは3年間同じクラスで、席も3年間前後の関係だった。昼食を食べながら、高校時代の何気ない思い出(例えば、授業中にあの先生がこんな小話をしていた、クラスの〇〇がこんな事を言っていた、など)をお互いに思い出しては言って笑い合っていたが、殆どすべての事柄をお互いに共有していて、ビックリしてしまった。オレだけが覚えていると思っていた大切な一コマを、Jも同じように記憶していた。

Jは、人間的に性格が丸くなっていた。無意識(?)に、オレの事を慮る様に言葉を選んで話している彼の様子を見て、今まで会わなかったこの6年間で、彼が潜り抜けてきた世間の荒波の高さを理解した。屈託のない笑顔を浮かべる事の出来る人は、それなりの人生経験を積んでいるものだ。

Jと再会してまだ2日目だが、ここ数年潜んでいた、チャクラの様に渦を巻いたエネルギーが、心の奥底から湧き上がってきているのを感じる。そうだ、高校時代もこんな感情が起こったんだ。毎日の様に。なんとも形容しがたい、気分が高揚しながらも絶望の淵に立たされている、ギリギリの感覚だ。

一緒に銀杏ボーイズを聞いて、アジカンを聞いたっけな、あの頃は。
今は、Jはどういう音楽を聴いて、何を想って生きているんだろう。

憧れの存在であり、同時に嫉妬する存在でもあるJとの再会は、高校・大学時代の「延長戦」だ。今度こそ、Jの鼻を明かしてやりたい。

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