高校教師の奮闘記録。

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この場ぐらい、本音で語らせてくれ。

 

昨日で全ての新入社員研修が終了し、

本日より本配属となる。

 

緊張もしているが、同時に武者震いがしている。

 

昔から、あらゆることで褒められることの方が多かった自分。

 

○○君、頭良いね

 

足速いね

 

カッコいいね

 

上手だね

 

凄いね

 

サスガダネ……。

 

 

客観的に見て、僕は、学校で求められた要求は、ある程度の完成度を以て応えられてきたと思う。なんでも卒なくこなせる、優等生タイプだった。

 

でも、本当の自分を見つめ直すと、決してそんなことはない。それは、自分が一番分かっている。

 

本当の自分は、

 

いつも他人の顔色を伺っていて、

 

他人に嫌われることを何よりも恐れていて、

 

手先が非常に不器用で、

 

精神的に脆いところがあって。

 

 

そんな自分が、果たしてどの程度会社組織という社会で通用するのか。

これは、自分のことながら、前から興味があった。

 

 

きっと会社には、意地悪な人がいるぞ?

 

嫌な人とも、毎日顔を合わせないといけないぞ?

 

やれるか?自分。本当にやれるのか?

 

 

こんな問いを自分に投げつける。

「僕」は正直戸惑う。

 

人が生きる意味まで遡って考えると、仕事「なんて」、そのほんのごく一部に過ぎない。そういうスタンスだから、仕事に対して斜めに構えていると思われても、否定する事は出来ない。

 

 

しかし、同時に「僕」は知っている。

 

主体的に生きる事こそが、自分の生を最も輝かせる方法であることを。

 

新入生らしく、会社を破壊するつもりで、挑んできます。

 

 

 

本気で狂ったヤツには、誰も適わない

 

先日、映画「奇人たちの晩餐会」を観た。1998年に制作された、フランスのコメディ映画である。

 

この映画を端的に説明すると、自分が「コイツこそ世界一の大馬鹿者だ!」と思ったヤツを、晩餐会に連れて行って、その馬鹿さ加減で競い合う、という、何とも冗談が過ぎる最高にゲスな晩餐会を開いている男の話だ。

 

訳あって、主人公は自分が選んだ「世界一の大馬鹿者」と、自室で一夜を共にすることになる。そこで様々なハプニングが起こるわけだが、僕は腹を抱えて笑いまくった。

 

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あるサイトでは、「二流の一般人が、一流の馬鹿に翻弄される映画」と評していたが、言い得て妙、まさにその通りなのである。

 

僕に当てはめると、完全に僕は「二流の一般人」だ。誰から見ても称賛されるような人にもなれないし、「頭おかしい」と揶揄されるような面白可笑しい人にもなり切れない。

多分、僕みたいな人が世の中の大多数を占めていて、いわゆる「平凡」な人なのだと思う。僕はそんな自分があまり好きではない。

 

何とかして「非凡」になろうとしているのだが、いつも決められた枠組みの中に納まてしまっている様な感覚になる。文字にすると当たり前に見えるが、「自分」、という人間の起こす行動一つ一つが、自分の予想の範囲内にすべて収まってしまっていて、それを現在進行形で行っている自分自身は、非常に退屈をしてしまう。

 

具体的な例を挙げると、

 

久し振りの友達とばったり会ったとする。

 

その時、僕がとるリアクションは、大体

 

「お~、○○久しぶりじゃーん。元気~??ハハハ」

 

みたいな感じだ。

 

この場面で、僕はおどけてみせたり、言葉が出ないほど感激している「振り」もする事はないだろう。いや、そういうリアクションが「出来ない」。

 

そういう、ある種固定化されてしまった自分像があって、それを何とか打ち砕こうともがいている。

 

新しいものを観たり、聴いたり。行った事のない場所へ行ったり。

それ自体は、未知なる体験、ということで、大変意味のある事だとは思うが、

それを受け止める「自分」がいつもの自分のままだったら、自分がどのぐらい感激するのか、どういうリアクションをとるのかが大体わかってしまうので、本当につまらなく感じてしまう。

 

一速のギアでアクセルを踏むのは、もう必要ない。

今の自分に本当に必要なのは、ギアをチェンジすることなのだ。

 

 

 

 

世に何かを創り出す」と、「ただ作られたものを消費するだけの人」

 

2チャンネル創始者である西村博之氏が、興味深い発言をしていた。

 

世の中には「世に何かを創り出す」と、「ただ作られたものを消費するだけの人」がいる。

 

ここで言う「創り出す」っていうのは、例えばプログラミングを駆使してホームページを作るとか、日曜大工をしてちょっとした小物を作るとか、エッセイや小説を書く、といった類のものである。要するに、自分で何かを作成し、世に出す作業の事を指す。

 

「世に何かを創り出」せて、且つその作業が好きな人は、その作業自体が好きなため、暇つぶしにも大してお金が掛からない。

 

それに対して、「ただ作られたものを消費するだけの人」は、世に出されたものを消費する事によってしか、暇をつぶす事が出来ない。即ち、そこでは必ずお金が介在してしまうのである。結果としてお金も溜まらなく、貧乏になってしまう。

 

やや極端な意見だが、僕は大いにこの意見に賛成だ。

自分の普段の行動を顧みても、「暇」となればじっとしていられず、どこか外に行きたくなってしまう。字面通り「外」に出ただけでは満足しないので、近くの喫茶店に入ったり、バイクに乗って周辺をツーリングしたりする。昨日は、夕方暇だったので市民プールまで行って泳いできた。もっと言えば、この大型連休中はとにかく暇だったので、TSUTAYAに足繫く通って、旧作DVDを借りて夜通し鑑賞していた。

 

この様に、僕は「暇」が発生した場合に、お金を使って何かを消費しなければ、「暇」を過ごせない質なのだ。金額の大小はあれど。つまり、典型的な「ただ作られたものを消費するだけの人」なのである。

 

これでは、土日になる度にお金が財布から飛んでいくのは火を見るよりも明らかである。この浪費癖を解消させるには、上の西村氏の発言にあるように、「世に何かを創り出す」人になるのが解決策となりそうである。言い換えれば、「お金の掛からない趣味を見つける」という事か。

 

社会人になって、金銭感覚にひどくルーズになっている。このお盆明けを機に、少しその緩んだ財布の紐を、キツく結び直す必要がある、と感じる今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相手に、自分の事を「二度と忘れない、印象的な人」と認識されるためには何が必要なのか。

 

私なりに考えた結果、今のところ以下の何れかが必要だと考えた。

 

礼儀  インパクト  名前  外見  会話内容

 

1つ1つ補足をすると、

 

礼儀……何となくの敬語や所作ではなく、完璧なまでの相手を思いやる誠意。それが表面に滲み出るかの如く礼儀。これが自然と出来ていれば、きっと印象的な人となるに違いない

 

インパクト… 話し方や声色が特徴的、初対面で奇抜な行動に出た、など。良しにつけ悪しにつけ、第一インパクトが大きい人間は印象に残るであろう。

 

名前… 変わった苗字や、変わった名前であれば、「この苗字はこの人」と固定化されるために、印象に残りやすいと思われる。その点、鈴木や佐藤、高橋といった苗字の場合は、多くの人が同一の苗字を名乗っている為、名前だけでは印象に残らない。

 

外見…背が低い、高い、イケメンなど、全体の8割を「普通」と定義するなら、そこはらはみ出た上下1割の外見を持つ人たち。彼らは、マイノリティーに属する分、印象に残るだろう。

 

会話内容… 自分とは全く違う世界で生きてきて、その話を生き生きと話す人。

自分の話した事を、表情豊かに、肯定しながら受け入れてくれる人。そういう人には安心感を覚え、印象に残るというよりは、「また会って話したい」と思われることが可能であろう。

 

 

これからも毎日多くの方と名刺交換をする事になるであろうが、

全ての人に、私という人を一発で覚えてもらえる様になるのが、僕の当面の目標である。

 

 

 

 

 

 

 

下層から上層社会を突き上げる。

 

先日、ポッと暇な時間が数時間出来たので、老舗高級ホテル「椿山荘」に足を運んだ。他でもなく、一流の空間で午後の一時を楽しむためである。

 

初めに断っておくが、私自身は生まれも育ちもかなり貧乏な環境であった。高校から進学校に入学し、周りの友達が話すブランド物の服や財布の話に全く加われなかったし、塾にもろくに通えなかった。

 

そんな身分の私が、つまり低所得層の行くお店に入り浸っていた私が、高級ホテルのラウンジに行く度に痛感させられるのだ。この国の金持ちは、こういうところに集まるのだな、と。

 

労働者階級として、日夜汗水垂らして工場で働いたり配達を行ったり日雇いバイトをしている最中に、「あの人たち」は自分の手を一切汚さず、金の力を以てしてやりたくない仕事を私たちにやらしめていたのか、と。この世の中に作り出されている綺麗な上澄みを、全て「あの人たち」に持っていかれていた。

 

 

そんな、下の階層に位置する私が上の階層を観ることが出来る、この遊びが好きだ。

決して入り混じる事のない人間が、こうやって不断の努力を重ねる事によって、同じ環境に身を置くことが出来る。そして、「あの人たち」の一挙手一投足を盗み取って、一流の場での立ち振る舞い、話し方を完全に自分の物にする。

所謂底辺層が集う場所には、己が志気が下がる為、所在なくウロツくことはしない。せいぜい、目的としては「社会科見学」程度の心構えで下の世界を覗く。

 

 

駄文に次ぐ駄文を書きしたためる様だが、最終的な人間の価値は、やはりメタ・お金の境地にある。

 

お金があっても買えないもの、身につけられないもの。

 

逆に言えば、お金があるからこそ、見えてこない本当に大切な事。

 

 

それらを、下層から上層に上がった人間は既に知っているのだ。