高校教師の奮闘記録。

このブログのキーワード:外国語、大企業、働き方、人生、カフェ、喫茶店、読書

この場ぐらい、本音で語らせてくれ。

横浜出張。

横浜市立の、某進学校の研究授業に参加。

 

1限だけ自習の指示をして学校を出て来た。授業出来るかなと思ったけど、片道3時間弱掛かることを考えて断念。まあでも、しっかり授業しようと試みる自分の姿勢だけは褒めておこう。

 

電車内では、読書。東浩紀「弱い繋がり」の続き。検索ワードをゲットするために、絶えず移動せよと。環境を変えよというメッセージは強く私の心に刺さった。チェルノブイリ原発には、今も数千人の労働者がおり、街にも車が往来している。暗い顔をして粛々と労働しているかといえば、そんな事はない。現地の人は、チェルノブイリの悲惨な事件を、風化させることなく後世に伝える事が出来るのであれば、映画を作るでもゲーム化するでも構わない、という。東は、地元民か、旅人か、ではなく、その間を行き来する「観光客」としてのぞき見するだけでも十分に価値のある行動だと言う。そういう人がいるからこそ、チェルノブイリは後世まで伝えられていくのだ、と。この考えには私も同意だ。人は、様々な事に首を突っ込んで、その界隈の雰囲気を味わった方が良い。知らない世界を知る事で、自分の立ち位置を相対化する事が出来る。

 

 村上春樹の、「雑文集」を、先日ブックオフで購入。過去に渡って、色々な所に書き散らしていた文章を、村上春樹氏が拾い集めて、大体のカテゴリー別に並べた本だ。最初の、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」からもう村上ワールド全開、という感じだ。まだまだこの本を咀嚼し切れていないので、今ここでライトに書くことは出来ない。

 

ちなみに、今日はランチに「つばめグリル」という老舗?でハンバーグを食べた。

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つばめグリルの看板メニュー。ソースが濃厚で美味。

ホイルをナイフで切り裂くと、ジュージューとソースが音を立てながら泡立っている。切れ目から湯気が立ち、ハンバーグの匂いがあたりに立ち込める。口に入れた瞬間、柔らかいお肉とソースが絡まり合って、とても美味い。

 

 

 こんな駄文をいくら書いても、世間的には何の価値がないのは明白だが、思考の整理の為にも、少しでも毎日「確かに私は何かをしていた」というlogを残す為にも、とりあえずダラダラと書いてみる。

 書き記さなかった事は存在しない事と同義だとは思わない。しかし、私の経験上、一回でも文字に起こして書かれた過去の記憶は、後でまた思い出しやすくなる事が多い。しかも、その時の情景も自分が書いた文字から鮮明にイメージ出来る事も多々ある。

 

 些細な事でも、世界を切り取って、分節化して、自分の目線から語る練習をしよう。僕が、僕であること。それをより、強固にするために。

 

 

<一日一新>

・「つばめグリル」にてランチ。

・池袋、「ロクシタンカフェ」にてコーヒー。客が少なく、ゆっくりしたいときにねらい目。

上大岡駅下車。誰も自分の事を知らない街。でも確かに、そこでは世界が回っている。不思議である。僕の存在は、1ミクロンも影響していない(気がする)。

 →、嗚呼、そう考えると、あの時一回でも発言しておけば良かった。自分から、「オレはここにいるよ」って、主張すれば良かったんだよな。

西武池袋線特急の「ラビュー」乗車。窓が大きい。車内が広々としていて、清潔感がある。

 

 

あっち

 

 

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雌岳からの眺望 秩父中心市街が見える

 

業務登山。横瀬の道なき登山口から、大机山を経由し、二子山へ。

朝は、まだ雨が降っていたが、登っている最中に上がってしまった。気温はぐんぐん上昇し、11月下旬とは思えないぐらい暑かった。頂上でも、全然寒くなかった。

 

Y先生と、頂上で昼食を食べながら色々な話が出来た。中でも、漫画の話は面白かった。さっそく、探して買って読んでみよう。

何事も、初速が大事。「検索ワード」を手に入れたと思えば、こんなに有難いことはない。

 

 人は、人に影響されながら、新しい世界を知り、そして、引き込まれていくのだろう。これは、何歳になっても変わらない。いや、仮に自分が40代、50代、60代になっても、年下の人々から学べるぐらいの器量を持ち合わせていなくてはいけないな、と思う。

 

秋の登山、空気が澄んでいて、とても清々しい思いがした。集団の登山スピードが速くて付いていくのに精いっぱいだったが、まあ久しぶりの登山なのだからこんなものだろう。最後芦ヶ久保駅に着く間際に、両足がつった。とても痛かったが、それでも歩き続けた。家に帰って靴を脱いで足を眺めてみたら、やっぱり皮が剝けていた。

 

2時前に家に帰ってきて、そこから地元の町会の太鼓の練習に参加。前回と同じ、「将来有望」な2人の子供が。この子達を、大切に育て上げなくてはいけない。それが、今後の私たち田ノ沢太鼓保存会の役割だ。

 

<一日一新>

・二子山登山。

 

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何語にも訳せる受け答えをする。

AbemaTVのNewsBAR橋下に出演していた、斎藤孝氏が言っていた発言、なるほどと思った。

 

小泉進次郎氏のSexy発言についてどう思うかを聞かれた際、「何語にも訳せる様な受け答えをすれば通用する」といった旨を仰っていた。確かにそうだ。質問に正対していれば、質問をした人も、また、その質問を後で見たり聞いたりする人も、質問にはしっかり答えているのだから、回答に対して不満はあれど、頭の中は「???」にはならないだろう。橋下徹氏も、記者会見の回答に対して、メディアで叩かれたり、記者から糾弾されることもあったが、自分が言っている事を他者が理解できるように発言した、という点においては、正しかった。

 そこには、しっかり文脈が存在しているのだ。Do you...? で質問されたら、Yes, I do/No, I don't がアンサーの型になっている様に、Do you...? で聞かれて、It's not sextと答えるのは、それは文学の分野で行うべきものだ。 質問に対してその文脈を推測させるのはダメだろう。

 

 

 

自分が何をしたら良いのか分からない人が凄く多い。

 

仕事上に置いてもプライベートに置いても、タイトルの様な「自分が何をしたら良いのか分からない」と良く相談される。

「何をしたら良いのか分からない」というのは、詰まるところ「何かをしたいけど、自分がどういう選択をしたら良いのか分からない。自分が何が好きなのかが分からないから、行動に移せない」という事である。

 

 相談を受けて、まあ一応はその人質問を交えて会話をしながら、ちょっとしたアドバイスぐらいは出来る。会話:アドバイス=9:1ぐらいの割合で。今までどんな事をしてきたのか、何をしてる時が楽しいか、何をしてる時が苦痛と感じるか、自由時間は何をしているか、「検索ワード」はどんな感じか、好きなyoutuberは誰か、ポンと100万円手に入ったら何に使うか、親との関係はどうか、ずっと地元にいたいか・地元に帰りたいか・地元を出たいか、等々。

 会話を通して、相手の思考が整理されていって、当人で自分の進むべき方向性が見えてくる場合もある。そうしたら、私の役割とすれば、その選択を「承認」(最近重要だと思っている概念)してあげて、背中を押してあげる事だ。

 -いいね、それ!しっかり悩んで出した選択なら大丈夫。オレは、○○さんをずっと応援してるよ。頑張ってね。… 

 

 人は、たぶん、どんなに「正しい道」を選択して、進んでいると思っていようが、他者からそれを認められたいものだし、同時に、その道を歩んでいる自分の背中を押してもらいたいと思うのだと思う。

 その表れとして、SNSでは「フォロワー」に向けて、何か自分が選択した進路などは決意表明と一緒となって投稿される。それまではおちゃらけた内容ばっか投稿していても、就職や退職、彼氏と別れた等は神妙な投稿になりがち。 

 

 ホントはみんなに認められたいんだろうなぁって。煌びやかに、自分を良いように見せる投稿やツイートはしてるけど、内心は凄く不安なんだろうなぁって。友達の投稿を見る度にいつも勘ぐってしまう。

 

 そういう投稿のコメント欄は、決まって「良いね!」「さすが○○!」「イケメンすぎだろ」「○○ー!!こんどご飯いこ。詳しく聞かせて!」といった即物的な条件反射的コメントが際立つ際立つ。そのスマホの画面の向こうでは、トイレにこもりながら、youtubeを観ながら、文字通り「片手間」でフリップ入力しているだけなのにね。大して頭で考えもせずに。

 

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話を少し軌道修正すると、そう、「自分が何をしたら良いか分からない」人って、本当に多いんだ。自分が何をすれば自分が喜ぶのか、自分の「トリセツ」をしっかり読み込んでない人が多い多い。

 

 自分の快楽分子というか、他者に依存しない形での「一人の楽しみ方」を知らないのかな。時間が空いた時、すぐに「友達」と連絡を取って、自分の楽しみを「他人」との関わりばっかりに委ねていると、いざ選択肢が与えられた時にはて?自分は一体何がしたいんだっけ?となるんじゃないのかな。丁度、夕方5時まで一緒に遊んでいた友達が、じゃ、オレ用事あるから、って言って帰っちゃって、一人でぽツーンと取り残された感覚。

 

 そもそも、今までの人生で、「自分」について考える時がどれぐらいあったのか。自分の嫌いなところに目を背けないで、それこを血を流しながらしっかり自分と対峙してきたのかどうか。不明瞭な中でも、「これだ」と思うものに目星をつけて、ひたむきに打ち込んた経験があるのか。

 

 あるいは、食わず嫌いになっていないか。好きなラーメンは何ですか、と問われた時に、ラーメンを食べた事のない人は答えられない訳で。味噌ラーメン、豚骨ラーメン、醤油ラーメン、塩ラーメンと食べて初めて、「私は味噌ラーメンが好き」と言えるのではないか。他の味を食べた事がなかったら、もしかしたら一番好きなのは塩ラーメンかもしれないからね。

 

 あとは、力強く何かを選んで突き進むには、「承認」されないと実行は難しい。身内の、親しい友達の肯定的な賛同があれば、たとえその選択肢が台風の中を突き進むような逆境だったとしても、一歩一歩、前に突き進んで行けるんだろう。

 

<一日一新>

 

ENEOSカードを作った

・mont-bell 長瀞店に行った。

 

 あっち

 

 

実りある会議にしようよ。

・読書の秋。

 先輩や同僚と雑談をするのも楽しいが、毎日同じ集団と話していても、基本的にい同じような話題に対して、同じような事を話し、毎日同じような結論に至ってしまう。

 例えば、「働き方改革」について話していたら、個々の見解なんて一日やそこらで大きな変化をする訳でもなく。「結局管理職の努力不足だよねー」てな具合で話がまとまっていって、その先の一歩先の議論まではなかなかならない。いや、結局「雑談」な訳だから、その先の議論へと進めようなんて、誰も考えてないのかもしれない。「いやいや、管理職はめっちゃ頑張ってますよ何言ってるんですか」なんて反対意見をぶつけたところで、あまり有意義にはならないわな。

 

 そういった時に、「本」と対峙することで、思いもよらない思考と出会い、自分の思考レベルが数段上にあがる。毎日同じ場所で、同じ仲間と仕事を回している私たちにこそ、「読書」とはpreciousな存在なのだろう。

 

 ・今日の会議。

  具体例は避けるが、今日の会議では、反対意見もちらほら出た。

  一番ダメなのが、自分では一切意見を言わず、「うんうん」とか「うーん」とか何とか言って、賛成している「空気」や、反対している「空気」だけ出している人々。自分のナンセンスさに気が付いているだろうか。

  そして、寄り合いの「長」とも言うべき議長は、その空気を読んで、「反対の意見の方も多数いるようですが…」なんて言っている始末。いやいや、反対を表明しているのはその発言した一人でしょうが。別に多数決を取った訳でもないのに。

  自分の意見をいわずして、他人が勇気を持って意見を言ったのにしか迎合出来ない人々。これは本当に「会議」なのだろうか。もっと有機的な議論に、どうしたらなるのだろう。

 

  まず、「議論の流れ」を良く抑える事だろう。いきなり訳の分からない質問をして議論のジャマをしている暇などない。しっかり前提となる会議資料には目を通しておいて、疑問点をある程度整理しておくことが大切だろう。

  そして、これも当たり前だが、人の意見をしっかり聞いて、全体にとって利益になる様に、しっかりと自分の意見を伝える事だ。これが、会議に臨むにあたっての最低限の「マナー」であり、もっと言えば「常識」の部類に値するだろう。

 

  本当に、会議中にも関わらず寝てる人、そんな程度なら退場してもらいたい。

 

 

<一日一新>

 

モンダミンを買った。明日から継続的に使用してみる。

・朝起きて30秒で支度して出勤した。何とかなるもんだ。

 

 

あっち