高校教師の奮闘記録。

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この場ぐらい、本音で語らせてくれ。

本気で狂ったヤツには、誰も適わない

 

先日、映画「奇人たちの晩餐会」を観た。1998年に制作された、フランスのコメディ映画である。

 

この映画を端的に説明すると、自分が「コイツこそ世界一の大馬鹿者だ!」と思ったヤツを、晩餐会に連れて行って、その馬鹿さ加減で競い合う、という、何とも冗談が過ぎる最高にゲスな晩餐会を開いている男の話だ。

 

訳あって、主人公は自分が選んだ「世界一の大馬鹿者」と、自室で一夜を共にすることになる。そこで様々なハプニングが起こるわけだが、僕は腹を抱えて笑いまくった。

 

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あるサイトでは、「二流の一般人が、一流の馬鹿に翻弄される映画」と評していたが、言い得て妙、まさにその通りなのである。

 

僕に当てはめると、完全に僕は「二流の一般人」だ。誰から見ても称賛されるような人にもなれないし、「頭おかしい」と揶揄されるような面白可笑しい人にもなり切れない。

多分、僕みたいな人が世の中の大多数を占めていて、いわゆる「平凡」な人なのだと思う。僕はそんな自分があまり好きではない。

 

何とかして「非凡」になろうとしているのだが、いつも決められた枠組みの中に納まてしまっている様な感覚になる。文字にすると当たり前に見えるが、「自分」、という人間の起こす行動一つ一つが、自分の予想の範囲内にすべて収まってしまっていて、それを現在進行形で行っている自分自身は、非常に退屈をしてしまう。

 

具体的な例を挙げると、

 

久し振りの友達とばったり会ったとする。

 

その時、僕がとるリアクションは、大体

 

「お~、○○久しぶりじゃーん。元気~??ハハハ」

 

みたいな感じだ。

 

この場面で、僕はおどけてみせたり、言葉が出ないほど感激している「振り」もする事はないだろう。いや、そういうリアクションが「出来ない」。

 

そういう、ある種固定化されてしまった自分像があって、それを何とか打ち砕こうともがいている。

 

新しいものを観たり、聴いたり。行った事のない場所へ行ったり。

それ自体は、未知なる体験、ということで、大変意味のある事だとは思うが、

それを受け止める「自分」がいつもの自分のままだったら、自分がどのぐらい感激するのか、どういうリアクションをとるのかが大体わかってしまうので、本当につまらなく感じてしまう。

 

一速のギアでアクセルを踏むのは、もう必要ない。

今の自分に本当に必要なのは、ギアをチェンジすることなのだ。