高校教師の奮闘記録。

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この場ぐらい、本音で語らせてくれ。

物価上昇に伴い、馬鹿げた消費行動を減らす。

昨年から、商品及びサービスの値上げラッシュが留まる事を知らない。
東京新聞による下記記事の様に、各企業、数パーセントの値上げをするか、価格は据え置きで、商品の容量を減らす対応をとっている。

www.tokyo-np.co.jp


社会人になってからというもの、給料として手取り約20万円を頂く様になってから、そこまで商品の値段を気にする事がなくなった。実家暮らしで独身であるから、大して生活費が掛かる訳でもない。好きな物に、好きなだけお金を使ってきた。最低限の貯蓄や投資をしながら。

ただ、5%から8%、そして8%から10%と、上がる一方の消費税増税の影響もあってか、会計の際に、享受したサービスに対して率直に「高い」と感じる事が多くなった。

単純に、サービスが良かったり、支払う対価に見合った経験や体験が得られるのなら、私はお金を惜しまずどんどん払う。しかし、昨今の「機械化」によって、直接人から接客としてのサービスを得られる機会が減った一方で、支払う代金が上がっているこの状況には、正直辟易している。「自分は何のためにお金を支払っているのか」を、改めて考えなおしている。


例えば、私はよく近くのインドカレー屋さんにインドカレーを食べに行く。値段は、一食当たり1,050円。毎回色々サービスを付けて貰っているので、値段以上に満足度が高い。
(海外では、お客さんに対して「適当な差別化」を行うのは常識である。よく来てくれるお客さんに対して、より良いサービスを行うのは当たり前。)

もともとインドカレーは学生時代から好きであったが、なぜ毎週通うのかと言えば、そのお店のスタッフに会う為、という間接的な理由の方が大きいかもしれない。それが、私が1,050円を払う理由である。インドカレーを食べるのは、あのお店に寄るための口実に過ぎない、のかもしれない。

閑話休題

無駄な支出を抑える」とは、よく節約方法を紹介する項目に真っ先に挙げられる、至極当たり前な助言である。

ただし、「無駄」とは何かをよく考えないと、本当は物凄く重要だったモノも切り捨てる結果になり、結局は色々損しちゃうよね、って事態になりかねない。

<私にとっての無駄>

値上がりした自動販売

↑ 180円という値段を払って、誰とも話す機会もなく、本当に飲みたいわけでもなく、唯々喉の渇きを潤すためだけに、自販機でペットボトルの商品を買う行為。これはムダである。何の広がりも展望もないお金の使い方である。

だったら、どっかの個人店とかで、「最近どーですか?」なんて話をするついでに、一本のジュースを買った方が、色々な付加価値が付いていて良い。

増える一方の決済方法

↑ 同じ自販機の、決済方法のシール。
一本のジュースの代金を支払うのに、現時点でこんなに多くの決済方法が存在する。
バカバカしい。これからも増える一方なのだろう。「今なら〇〇%還元!入会すると〇〇ポイントプレゼント!」といった、一見すると消費者側にメリットのあるような謳い文句を、延々と宣伝するのだろう。

私は、決済手段としては長らくペイペイを愛用してきた。
が、この便利すぎる決済手段も、捨ててみようかなと思う。また現金に戻して、「うわぁ、あの人まだ現金で払ってるよぉ…。」「感染症予防の観点からも電子決済の方が合理的なのにねぇ…ヒソヒソ」と言われる様になってやろうかなと思う。

もう。スイカ1枚で十分だったハズじゃないか。
それが何で、こんなに電子決済サービスが群雄割拠しなくてはならないのか。

話を戻そう。

雨が降った途端に出現する商品


雨が降り出せば、ビニール傘が店頭にごちゃっと置かれる。
しばらく、このビニール傘の近くで、どのぐらい売れるのか見ていた。そしたら、飛ぶように売れる。どんどん皆取っていく。
そして、駅構内には、不必要になったビニール傘の山。さっきまで500円で売られていたものが、違う場所では、ただのガラクタ。

馬鹿じゃないのか。ほんとに。
「今の便利さ」を優先しすぎだ。
モノを買ったのなら、最後まで看取る覚悟で使って欲しい。


こういったのが、私が「ムダ」と感じる出費の一例である。

需要があるからと言って、何でもアリだとは思わない。