さらば思い出たちよ!
さらば思い出たちよ
一人歩く摩天楼
わたしという名の物語は 最終章
悲しくって泣いてるわけじゃあない
生きてるから涙がでるの
凍える季節に鮮やかにさくよ
ああ わたしが負けるわけがない
----------------------------------------------------
教師として、担任として受け持った生徒たちを伸ばす事だけを考えて、がむしゃらに突っ走ってきた3年間が終了した。今年は副担任である。
手塩にかけた我が生徒が学び舎からいなくなった時、教師として私は何を感じるのか。それを知りたくて、今まで妥協せずに仕事を続けてきた。
一つ分かったのは、「仕事」としての教師は、私にとって、その余りにも感情労働過ぎるが故に、非常に辛い仕事だということ。
卒業生を送り出して、放心状態になる事も許されないままに、次年度の準備でお尻に火を付けられる。牧歌的な、夏目漱石の「坊ちゃん」の様な教師像とは、かけ離れている。教師であり続ける事とは、生活の一部として、日常の連続性の中で教鞭を執っていく事に他ならない。
恐らく、私はそこまで割り切れない。
燃え尽きた、というより、一旦は燃え尽きさせて欲しい。私はそこに美学を求める。
不死鳥だ。私は不死鳥だ。
ゾンビの様に生きてるのか死んでいるのか分からない生き方なんてまっぴら御免蒙りたい。一旦死ぬ。完全に死ぬ。その後に、鮮やかに蘇る。それこそが、私の生き方、働き方なのだと思う。ゾンビ教師ではなく、不死鳥教師だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教師として、結構な頂(いただき)まで到達した様に思う。
某有名講演家によると、「プロ」と「アマ」の違いとして、こんな事を言っていた。
「プロ」と「アマ」の違いとは、
「聴き手の状態を変えてしまう力」にあるという。
これは、私も完全同意で、私は「不可逆性」と「感染」という言葉によって、今まで理解していた。
更に、氏はプロとアマの違いを5つ列挙し、
・たとえ話を生み出す力
・場の支配力
・今ココを拾う力
・強い言葉を繰り出す力
・感情の爆発力
だと言っていた。
これも、大体私が常々考えていた事と一致し、
そして、私が毎日磨き上げ、意識的に向上させてきた能力だ。
毎日、しっかり気持ちを使って生徒に向き合ること。
「私の存在」によって、生徒の耳目を集め、授業を成り立たせてしまうレベルにまで支配力を上げること。
生徒と自分の「心の距離」を把握し、生徒が知りたい事、疑問に思う事を、場の空気からキャッチすること
「コトバ」の力で、生徒を励まし、生徒をやる気にさせ、生徒の将来に良い影響を与えること
心理的壁を、自分で打破すること。恥ずかしがらず、生徒の前で「恥」をかけること。
その点において、私は、私自身を、「プロの教師」だと、断言できる。
大半の教師には、到底追いつけない境地まで来たと思う。
もちろん、性別、年齢、性格の壁を越えられるとは思っていない。(例えば、22歳大卒のイケメン先生というだけで、生徒から好かれる、など。)
ただ、技術としてのプロ教師として、胸を張れるレベルまでこれた。
一つの山頂に到達した。
しかし、周りを見渡せば、他にも様々な標高の山が見える。
しばし休憩し、違う山の尾根に取り付ていこうかな。